コメント (『究竟の地 - 岩崎鬼剣舞の一年』について)

 鬼剣舞の魅力に引かれ、岩崎の人達の温かさに引かれ、県外からも岩崎へ剣舞を習いにやって来る人達がいる。私も、その中の一人である。

 稽古した後は反省会となり、酒をくみかわし熱く語り合う。そして、酔っぱらっても剣舞談義である。何を言われているのか分からない言葉もよくあったが、ここで学ぶことが多くあった。岩崎の方々との付き合いは35年になる。

 三宅流さんが撮影した映画『究竟の地 - 岩崎鬼剣舞の一年』には鬼剣舞を愛する人々の姿が記録されている。鬼剣舞を通しての人々の絆を感じることが出来る。郷土芸能の素晴らしさ、大切さを感じさせられる映画です。

◆ 藤本吉利(鼓童/太鼓奏者)

 三宅流は特異な皮膚感覚をともなった観念論的映像詩を連作して来た映画監督だった。しかし2003年の「白日」によってそれまでの方法が頂点に達すると、彼は一転してドキュメンタリーの世界へと突き進んでいった。2006年、深い静寂のなかで若き能面師の仕事を記録した「面打」は、その最初の大きな成果であり記念碑的な仕事だったが、何より彼の身体論の探求に、ドキュメンタリーという新しい方位の仕事が不可避のものとして到来したのうだという事を、我々は知ったのだった。完全を求めて造りこまれた映画空間「白日」と、ドキュメンタリー「面打」。その双方ともに徹底的に身体にまつわる映像哲学として何ら違いはないのだが、「白日」以前の彼の身体がフィギュールとしての皮膚の冷気を根底とし、それを維持していたのに対し、「面打」においては木片から彫りだされていく面が、皮膚の熱を求めてどこまでもその温度を上昇させていったという、そのベクトルの大きな変更が確実に始まっていた。熱を撮ること。新作「究竟の地-岩崎鬼剣舞の一年」において、三宅はさらにその大きな扉を開いただろう。東北の地に居を構え、たった一人で鬼剣舞を追ったこのドキュメンタリーは、この土地の人たちの体温と大地の温度そのものを追った記録だ。

 大地に片膝を突き刺すように座し、一気に腰ごと舞い上がり、大地を確かめ合うように踏み鳴らす。何と美しい体の軌跡。この地では、男も女も、子供も大人も、角の無い鬼として舞うという。 修練を怠らず、よく酒を飲み、田を耕し、あるいは大工をしながら、いくつもの祭りを生きていく。何よりも、庭元の腰の軽やかさ、そして念仏を唱え太鼓を叩く、その腕の太さはいったいどういうことだろう? 結婚式が行われる旅館や、小学生が練習する体育館。吹雪の剣舞会館や廃校となる小学校の校庭の、そのどれもが大地の熱で燃えている。風が吹いている。

◆ 石田尚志(映像作家)